青眼の蜻蛉

私の父はトンボが好きで、子供の頃はよくトンボ採りをしていたと言います。
「マルタンヤンマは昔、♂を奈良の家(父の実家)の前で採ったよ」
「あの眼の色が標本で残ったら良いのにな」

父とトンボの話をすると毎回、必ずと言っていいほどこの話題が挙がります。
父はかつて標本も作っていたそうですが、色が残らないことが残念でやめてしまったというのです。
私がまだ標本作りを始めて間もない中学生の頃、こんな質問をしたことがあります。
「じゃあもし、標本であの色が簡単に残せる方法があったら___」
「またトンボ採集、やりたいと思う?」


あれから10年ほど経った2022年になっても___私はマルタンヤンマを採るどころか目撃することすら叶っていませんでした。
美しく、東北から奄美大島まで国内広く分布する本種は写真家にも採集者にも非常に人気の高い昆虫です。
ネットで検索すれば、枝にぶら下がっている写真や朝夕黄昏時の採集記が無数にヒットしますが、その探し方や出現場所の条件については文字や写真の情報だけでは中々理解できずにいました。
私が採集で訪れている近所の界隈でも、「居ますよ」という話は聞いているものの何を手がかりに探せば良いものか分からず……
そもそも黄昏飛翔がどういう場所で起こるのかもイマイチ分からなかった私は、長野にいた学生の頃から毎年夏になると黄昏時に空を眺めながら歩く探索回をやっていました。
ただ……見つかるのはいつもギンヤンマだけの集団でした。
ヤブヤンマも、ネアカヨシヤンマも間違いなく近所に居ると思うのですが……
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2015年に河川敷で確認した飛翔体。ネアカヨシヤンマだと思っている。


黄昏ヤンマの発見に苦戦する中で状況が大きく変わったのは、2021年7月10日。
この日は昼間から採集をしていて、夜はライトトラップをするため夕方にポイント移動をしていました。
周囲が薄暗くなる中、とある林縁部を通った時でした。

そこには自分の胸くらいの高さを真っ直ぐ、かつ素早く行き来する1頭のヤンマが居たのです。
翅の褐色味がかなり強く感じる。ギンヤンマよりは明らかに小型だがカトリヤンマとは飛び方が全く異なるこのヤンマ……まさか。
飛来はおよそ5分おきくらい。しかし30分以上に渡って至近距離の同じ場所を何度も行き来してくれました。
にもかかわらず私は何度も何度も網を振り外し、とうとうその日は採れなかった……
あの日は完全に暗くなるのを待たずに天候が悪化し、土砂降りのゲリラ豪雨に見舞われました。
とんでもない量の雨に溺れそうになりながら自転車で帰宅しましたが、あの時の自分は今までになく希望に満ちていたのを思い出します。
予想が合っていれば、一気に目標に近づいた__そんな気がする!
しかし、その後も数週間にわたって数回同地を訪れましたが、ヤンマとの再会は叶いませんでした。
別場所でカトリヤンマが群飛する光景を見ることは出来ましたが、求めている黄昏飛翔の環境は見つからぬまま……2021年の夏は終わりました。


2022年7月。
梅雨も明け、今年もTwitterでマルタンヤンマの写真が上がり始めました。
触発される形で、私も明日は夕方から採集に___あ、午後から天気悪いのか。
じゃあ朝、行ってみようか?
そういえば黄昏採集は朝でもできるんだった。
早起きがキツいので今まで朝方に探索に出たことはなかったが…….朝なら負けても鳥見に逃げることが出来るな(笑)

1回戦_生息地の開拓

2022.07.03(日)
日の出は4:30頃。
早朝、日の出前には現地に着けるように起きて、行動開始。
昨年それらしいヤンマを確認したエリアを、冬の間に鳥見も兼ねて何度か探索していました。
その過程でいくつか黄昏採集に良さげな環境を見つけているので、車が使える今日は一通り巡ってみます。
林縁を流しながら最初の目的地へ。
道中、真っ直ぐ頭上を通過していく1頭のヤンマを目撃。今のがそうだったりして……
マルタンヤンマの発生地は主に池沼。ガマやカンガレイなどの抽水植物が繁茂していて、なおかつ樹林が隣接する環境が必要といわれます。
成虫の活動範囲はおそらく発生地から多少離れた場所も含まれていると思うし、黄昏飛翔も単に発生地の直上で起こるものではないと思うのですが、まずは発生地になり得そうな池の周辺環境を見に行きました。
雰囲気は良さそうだけど……ギンヤンマみたいなやつ1頭しかいないな。
ダメかなこれ。
なんやかんやで、道中で1頭ヤンマを見かけた場所まで戻ってきました。
今度は近くに車を停めて現場をしっかり見てみます。

林縁部のちょっと草地が食い込んだ感じの場所、とでも言うべきか。
なんか真ん中に邪魔くさいシュロがありますが……ここは両側を樹林に挟まれた三角形の小さな草地で、後方には葦原や田んぼが広がっています。
直近に理想的な池があるかというとかなり微妙ですが、雰囲気は割と間違ってない、と思う。
まあ、空を見上げてもヤンマの姿はありませんが……(笑)
やっぱり何も分からんな……とその場に棒立ちしていると、頭上ではなく胸より下くらいの超低空を林に沿って飛んでいるヤンマを確認しました。
これは……去年のあの時と同じものの雰囲気!?

後方。周辺にガマはあるがほとんど水の無い湿地が広がる。
概ね目の前の樹林と、後方の湿地や田んぼを行き来するように直線的に素早く飛び、三角形の草地内を時折不規則に飛んで摂食しているようでした。
いずれにせよあまりのスピードに、この日は網を振ることは一度も出来ず目で追いかけることがやっとでした。
しかし、目の前を飛んだ一瞬、薄暗い中でもその姿__コバルトブルーの模様と眼が見えた気がしました。
ここで私が出会ったのはまさしく、ずっと会いたかったマルタンヤンマの♂のようだったのです。
マルタンヤンマ♂の出現場所は他の一般黄昏ヤンマとは少し異なっているようで、林縁などで直線的に素早く飛ぶ、という話も度々目にしていました。つまりこういう場所で良かったんだな……
朝の6:00前ごろになると活動を終えたようで、同所には現れなくなりました。
今回はこれで撤退。
ヨシゴイ
ヨシゴイ
Ixobrychus sinensis sinensis (Gmelin, 1789)

なおこの後、近場で鳥見しました。ヨシゴイがしっかり見られて良かった。

2回戦_飛翔行動の分析

2020.07.03(日)
再び同地を訪れたのは……1回戦の同日、7月3日の夕方でした。
昨年の敗北経験もあり、一度確認した地点にずっと留まるとは限らないので短期で決着をつけなければ!
当日の日没が19時頃だったので、その時間に合わせて17時頃に現地を訪れたと思います。
朝見たものと同じものと思われるヤンマは、現地に到着してから30分程……17:30を過ぎた頃から既に飛翔していました。
ただし、少し飛翔高度が高い……7mくらいだったでしょうか。
長竿で頑張れなくはないのかもしれませんが、飛翔速度は速いし網を掲げて待つとやはり警戒されるので、低い位置を飛び始めるまで待った方が良さそうでした。
18:15か18:30か忘れましたが、そのあたりから急激に飛翔高度が下がり、頭上すぐ上を飛び始めました。
そこで一旦その場を離れて様子を伺ってみると、朝と同様に低い位置を飛び始めました。
そこから2、3回はチャンスがあったものの日没の19時を待たず、18:50頃を最後に戻ってこなくなりました。
結局、今回も何度か近くを飛ぶことはあったもののまたしても網を振ることさえ出来ずに終了してしまいました。
ただこの回で、彼が好んで飛翔するコースを把握することが出来ました。次は待機位置を変えて挑むぞ……

3回戦_初めての交戦

2022.07.07(木)
ひとつ、今更気づいたことがある。
黄昏採集は早朝なら平日でも出来る(その日の仕事が普通に内業の場合)。
早朝であれば平日であっても車を借りることが出来るし、短期決着を目指す上で早朝を利用しない手はないのです。
この日は4:20頃に現地について待機し始めたと思います。
昨日は忘れてたけど、結構蚊が多い場所なので虫除けスプレーを身体に噴霧しておきました
件のヤンマは今日も同じように飛んでいました。
前回待つべき場所が分かったので、今回はチャンスも多かろう……と思っていたのですが全然近くを飛んでくれず。
2回ほど近くに来た時に今回はようやく網を振ることが出来ましたが、華麗に避けられ……かすりもせず敗北。
この日は追っているヤンマの他にもう一種類、大型のヤマトンボが低い位置を飛んでいるのを見かけました。
かなりゆっくり飛んでいるそれさえ私には採れなかった……
後の調べでコヤマトンボと判明。黄昏飛翔とかするんですね。

偶然近くで狩りをしていたらしいニホンイタチ Mustela itatsiが見れてちょっとうれしかった。
よく分かった。今の自分の技量では簡単には届かない。
かくなる上は___
その日は仕事帰りに釣具屋に寄ってとある物を購入しました。

4回戦_加速する採集

2022.07.08(金)
昨日入手した新しい道具を今回から導入します。
買ったのは、こちら___

玉網です。(60cm口径)
この組み合わせになると、もはや完全に磯玉……魚類用の一式になりますね(笑)
玉網は通常の捕虫網に使われるナイロンネットとは比べ物にならないくらい風抜けが良く、素材も軽いため高速で自由なスイングが可能になるのです。
濡れた後の乾きも早いので、水辺での戦いにも好適です!
網目も大型のトンボであれば逃げられない程度の粗さであり、トンボ採集を中心に行う方でこの網を使用する方は多いようです。
↓今回買ったのはこちらと同じものです。強そうな枠もついてきた。

少し試し振りして、元のナイロンネットより格段に速度が上がることを確認。
これならいけるだろ……!
もう妥協はしない……本気で勝負を決めに行く。

到着して間もない4:30頃、まだ奴が飛び始めるには早い時間ですが、林縁というか半分林内みたいな薄暗い場所を黄昏ているヤンマがいることに気が付きます。
何度か空振りするも(←??)、逃げずに近くを飛び続けていたため捕獲に成功。
まさか……

カトリヤンマ
Gynacantha japonica Bartenev, 1909
「もう出てるんだ……」
何度か採集経験のあるカトリヤンマでした。8月くらいからの虫だと思ってたが……
湿地などで発生するヤンマで、私がよく行く河川敷界隈ではギンヤンマに次いで出会いやすい種です。
かなり暗い時間に林縁低空の狭い範囲を不規則に飛んでいることが多く捕獲も簡単……です。
水たまりみたいな小規模な止水域、しかも結構汚めな水でも発生できる虫なので暖地では珍しくないようですが、緑と水色の二色から成る複眼は美しく、和名も含め涼しげな雰囲気が好きな虫です。
思えば私が幼少期に一番憧れたヤンマは本種だったかもしれません。
マルタンヤンマももちろん憧れでしたが、図鑑に載ってた写真はカトリヤンマの方が美しく見えたんですよね。
ここで採集した個体は未成熟だったためリリースして、本題に移ります。
今日もまだ例のヤンマは同じ場所で飛翔していましたが……ほとんど近くを飛んでくれず。
1、2回あったチャンスはものにできず……また敗北を重ねてしまいました。
初日はもっと近くを何度も飛んでくれた気がするのですが……
こちらの意図を理解して警戒している!? 
何か変化したことはあっただろうか。初日と今日までとで___

5回戦_折れてない

2022.07.09(土)
そういえば3回戦以降は虫除けスプレー使ってたけど、これもしかしてヤンマにも影響してたりする?
虫除け使わなければ、寄って来る蚊を囮にしてヤンマも近くに誘導できる、いやそんなことできるか……!?
試しに今日は虫除けを使わずに、一枚羽織って採集に臨む。
「お、案外変わるかもしれない」
今日のヤンマはちゃんと近くを飛んでくれている気がする。
ただ頻度はごく少なく、一瞬のタイミングに合わせるためには集中力を切らしてはならない。
接近にどれだけ早く気づけるかが勝負。飛んでくる方向はほぼ決まっているがチャンスは3秒もありません……
5回目ともなると効率化もできるようになってきて、ポイントへの飛来が途絶えたら即離れて戻ってくるのを待ち、ヤンマが戻ったらこちらもすぐ定位置に戻る、ということを繰り返していました。
(こちらが定位置を離れると案外すぐに戻ってきてくれる)
そしてついに特大のチャンスが訪れた___
真正面からの飛来。
真っ直ぐこちらへ。まだ距離はある。
このままの立ち位置で問題なし。
もう少し・・・・・・
「ここだ!!!!!」
ターゲットをしっかり見て全力スイング。
真っ直ぐ飛んでいたヤンマの軌道は、少し横にそれた。
げ、ちょっと早かったか!?
いや、ここは強引にでも合わせ___
パリッ
と軽快な音と共に、お決まりのフレーズが脳裏をよぎる。
”あの,急に竿の力が抜ける感覚は,何度味わっても嫌なものである___”

「馬鹿じゃないのマジで…」
またやってしまった……
ここ数年はスウィーピングで竿を折ることはなくなったものの、こういう飛び物狙いでの失態は2年連続です。
ちなみに翌日から遠征です。スウィーピングめっちゃするつもりだったんですが、どうすんだよこれ(ガチで笑えない)
いや、まだだ……まだ折れていない。
3段目をしまって、2段目までで止めてやれば一応まだ頑張れます。
とは言えリーチは1段分短くなるので、よほど近くまで来てくれないと厳しいと思う。
今日は諦めて日を改めた方がいいのかも……?
__網の持ち方、変えてみたらどうだろうか?
普段は左手で一番太い段の口と出ている段の根元、右手で極力先端に近い位置を抑えていました。
ここで左手を下げて、右手で太い段の口部分を持ってみる。長さは稼げるけどまた折れそうか……?
持ち方変えて試し振りなどしている真っ只中、正面からヤンマが戻ってきました。
タイミングが悪すぎる!
こちらが妙な動きをしていたからか、ヤンマも真っ直ぐ飛び抜けずに私の後ろで方向転換し、結果的に目の前を横切るような軌道をとった。
持ち方を戻す時間はなかった。このままやるしかない!
「いけてくれ、頼む……!!!!」
振り抜いた網の中には、確かな手ごたえがありました。
そこにはあったのは紛れもなく、幼いころから憧れた虫の姿___

「やっ…た……」
「やったやったやったやったやったやった___やったぞ!!!!」

まず何するより先に父にLINE送った
マルタンヤンマ
マルタンヤンマ
Anaciaeschna martini (Selys, 1897)

これだ、マルタンヤンマの♂だ……!!
捕獲して初めて、その姿をしっかりと拝むことが出来ました。
マルタンヤンマ♂ 模様
コバルトブルーの体色と複眼は、図鑑や写真で見てきたものよりずっと美しく感じられます。

埼玉県RDB(2018)における本種のランクは準絶滅危惧(NT2)
県内各地で見つかっているものの、生息地や個体数の減少が懸念されている存在です。
ただし東京都内には本種の有名なポイントがあるほどで、首都圏でも場所によっては多くいる虫です。
有名な場所に向かえばもっと早く遭遇を果たせたかもしれませんが、ちゃんと自分で探した上で出会いたかったので……これで良し!

来年以降もこの場所で飛ぶ姿が見れるのでしょうか。
それとも年によって出現場所が変わっていくのでしょうか。
この場所には1週間後くらいに1回、8月末にも1回と再訪していますが新たなマルタンヤンマの出現は確認できませんでした。
来年以降も余裕があったらこの界隈を気にして探索を続けようと思います。
とりあえず、今年は無事にマルタンヤンマ♂を採集できてその採り方・探し方のヒントも得られました。
ヤブヤンマ
同地で8月に得たネアカヨシヤンマ(左)と他県で出会ったヤブヤンマ(右)
※後の採集で、ネアカヨシヤンマやヤブヤンマにも出会うことが出来ました。
マルタンヤンマと上記の2種を合わせて、黄昏御三家と呼ぶそうです。
長らく縁の無かった虫でしたが、今年になって私もようやく黄昏ヤンマ類が採れるようになりました。
いやー良かった。
ところで、
黄昏採集って結局どうやってやるんですか?
どういう場所にいけばいいんですか……??

黄昏ヤンマが群飛する光景は、来年こそ見られるのだろうか……(笑)


今回採集したマルタンヤンマを標本にしたものがこちらになります。


私的には「けっこう残るじゃん!」と思ったのですが父にこの写真送ったところ、
「捕獲直後と比べると…綺麗な青を残すのは難しいんだね」
とコメントが返ってきました。
この程度では納得してもらえないようです……
まだ高みを目指す手段はあるが、標本作成の簡便さが犠牲になるので難しいですね。
最近のトンボ標本作成方法について、過去記事を修正して挙げましたのでよければそちらもご覧ください。

トンボ類における標本の作り方と色残しの方法に関するあれこれ

はじめにトンボの仲間は、チョウのように美しい種を多く含む魅力的なグループです。採集も楽しい(重要)。しかしながら、その美しさを維持したまま標本を作るのは難しいと言われます…

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