昆虫採集者の理想というか、ゴールって何でしょうね?
趣味で昆虫を採集し、標本を作る方は「最後こうしたい、こうなりたい」っていうような具体的なイメージを持っていますか?
特定のグループを制覇したコレクションを作り上げたいとか、標本をこういう風に使いたいとか……。

1年前、遠征先でふと「ゴールって何だろう」と考え始めた……。
私は……そんなことをこれまで考えたこともありませんでした。
趣味としてずっと昆虫採集をしていますし、目標とかあまり考えずに始めたことなんですよね。
考え出した時、すぐ頭に浮かんだキーワードは
「許されること」でした。
誰に? 何を? という感じですが、私にとって「許されること」がこの趣味のゴールかなと今は思っています。
私が漠然と「許されていない」と感じるような、昆虫採集をやる上で折り合いのつかない事項があって、それらに対する答えをきちんと示す必要を感じているから……なのだと思います。
折り合いのつかない事項というのは、おおまかに以下の3タイプです。
②行動的な課題
③感情的な課題
①意義的な課題
意義的な課題というのは、「そもそも自分が昆虫採集して標本を作ることに意義があるか?」という話です。
昆虫標本の意義というのは色々な方が言われているように「特定の時間場所における生息の根拠」や「分類学的研究の材料」などがあります。そしてそれらはアマチュア=趣味の昆虫採集者が作成した各地の標本が多く活用されています。
しかしながら博物館などに集められる標本には偏りが出ます。希少な蝶の標本ばかり集まって真の普通種が全然なかったり、同産地同種の標本ばかりが大量にあって管理者の「要らねえよ」みたいな意思を感じる時があります。
(※基本的に明言はされないものの)
そういうの見ると自分の趣味範囲で採るような虫も大概「要らない虫」に当たるんじゃないの? って思わされますし、他の人が散々行ってる山や島なら行かなくていいか なんて思ってしまいます。
そうして意義のある採集を、意義のある標本を求めるようになっていくのです。
それが本当に望ましいことなのか、分からないまま……
標本の意義に囚われると下記のような疑念を持つことが多くなります。
・その種の標本、そこまでの個体数が必要か? 不十分か?
・標本がなくても同定が可能な虫は写真記録で代替できたのではないか?
あらゆる標本に一貫した「意義」を示すことができるか……というのが最近の悩みです。
基本的に標本があるに越したことはない、と思っていますが膨大な標本の管理や希少な種の保全みたいな話が絡むとその意義や採集の匙加減についてより慎重に考えなければならないと思う場面があります。
②行動的な課題
行動的な課題というのは、「標本を役立てるための努力をしているか?」という話です。
上述した「意義の課題」はそもそも活用できる状態の標本を作って適切な場所に保存していることが前提の話で、その域に達していない私は意義の有無にかかわらず作った標本が活用されないorされにくい状況にあります。
基本的な標本の作成形式やラベルの表記、データベースの構築、そして報告……この辺は今(ようやく)頑張り始めたばかりですが、
昆虫採集を意味のある物にしたい、昆虫標本を活用したいと本気で思うならそれがやりやすい立場……許される立場(=プロの研究者とか)を最初から目指すべきだったと思います。でも私はそうしなかった。
大学で卒業研究やって「ダメだな」と思い学部で卒業後就職しています。
詳細は割愛しますが、向き不向きの前に研究活動に対する意欲が最初から無かったんだなと思っています……。
研究者とかそういう立場によって許しを得る、というのは何というか王道的なゴールへの道に思えたんですが、もしそれを自分がやっていたら「調査・研究以外の(趣味的な)昆虫採集の意義」はちゃんと示せないような気もして……? 普通に趣味を中心として昆虫採集を続けるという道を進んでこれはこれでやりがいを感じるというか、自分には合っている気がしてます。
③感情的な課題
感情的な課題というのは、「生命を奪う行為に納得できるか、理解を得られるか?」という話です。
趣味として昆虫採集を行うとしても、生命を奪うのであれば果たすべき責任も当然あるだろう、というのが今の私の考えです。まあ……「可哀想だから」ですよね。
また、昆虫採集者にとって「見逃す」の是非についても疑問があります。
採らないという事は”見逃してあげる”じゃなくて……
”何もしない”ことではないか? と思わされることがある。
純粋に虫が好きなら、種の繁栄を願うなら……採集を慎むべきではと思った場面は少なくありません。
しかし記録として重要だと思う場面で可哀想とか個人的な感情で採集しなかったら、昆虫採集/標本作成という行為を自分で否定していることになるのでは……?
かといって必要性とか意義に重きを置き過ぎた昆虫採集はもはや自分のやりたい事ではないし、楽しい趣味ではなくなってしまいます。
やりたくてやってることでもないのに生き物を殺していくことになり、そんな事を続けていたら……心が壊れます。
こんな感じで感情的な課題は大概、意義的な課題と対立します。
両者を上手く立てられる落としどころを模索していかなければなりません。
ちなみに、今は非公開にした昔の記事で、僕はこんなことを言っていました↓
今の私の昆虫採集は、「虫好き」である自分の気持ちの1つを否定した事で成り立っているのです。
自分にとって、好きな気持ちと昆虫採集は同時に成立するはずがないものです。
だから、私の場合昆虫採集をする理由が「昆虫が好きだから」になる訳がないんです。(2019年3月)
今は「どちらかを犠牲にする」と思うのはやめました。
「可哀想だ」って思いを乗り越えるのは……僕には無理でした。
だから僕はずっと引きずっていく。
その都度感じた想いを引きずったまま、前に進むんだ。
自分の気持ちは大事にすることにしたから……。
昆虫採集を続ける中で立ちはだかる課題は多くて、「苦しい趣味だね」って自分で思ってしまいます。
でも昆虫採集はみんながそういう気持ちでやっているようなものではないですよね。各自が折り合いを上手につけられるかの世界だと思うんです。私がその辺かなり下手で、誰かの真似をしようも上手くいかなくて、度々自分の非力さが嫌になる。
向いてない気がする、辞めたほうがいいかもと思ったことだって……何度もあります。
辞めても作った標本はどうにもならない。何の責任も果たしていない以上許されない。
そうやって責任感が自分をしっかり縛っておいてくれるから「まだ逃げれないな」と思えますが……。
むしろ、逃げたくなかったんです。
私が昆虫標本を作り始めた一番最初のきっかけは、もらったタマムシをまともに世話できずに1日で死なせてしまった事でした。
あの日、昆虫に対して自分が知ってることや出来ることがあまりに少ないことに気づかされて……。
初めて……もっと本気で昆虫と向き合いたいって思ったんです。
昆虫と本気で向き合うために、これからガチの昆虫採集をしよう! そんなスタートでした。
今は……思い悩むこと自体が真剣さを証明してくれていると思うし、その気持ちは大事にしたいのです。
だからまだ頑張って向き合っていきます。納得がいく答えを出せる日まで。
あと、これはもう完全に夢の話ですけど、
このブログが本当に最後の更新を迎える時が来たら、そこまでに出せた自分の答えを示せたらいいなと思っています。
同じように昆虫採集をする中で悩んだり、挫折してしまった(ごく少数の)人達に向けて何かを伝えることができたら……。
そこまでやれたら私は自分のやってきたこと、ちゃんと自分で許せるような気がします。
それがこの昆虫採集のゴールで、ブログのゴールで……
人生のゴールで、いいんじゃないかと思っています。

コメント
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当初は標本で昆虫に第二の人生を歩ませるのではないかと考えていましたが、少しずつ標本の質を高めていくうちに、昆虫の死骸では満足できなくなってきました。 生きたまま捕まえるためだし、完璧な標本を求めて美しい昆虫をたくさん殺すなんて、ごめんなさい、私もあなたと同じ気持ちです、完璧な作品なのか、昆虫そのものなのかはわかりません
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標本の活用方法は学術的なやり方だけではないと思います。
集めて昆虫の美しさを自身で感じるだけでなく、誰かに伝えたりすることができます。
命を奪うことに感じて思うところがあるのでしたら、どんな風に標本を活かしていきたいか考えてみてはいかがでしょうか。
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もしも、人間が採集されて、標本にされたら嫌なので、昆虫採集はしません、できません
命を繋ぐための狩猟はありだと思いますが
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きちんとした目的を持って行われる昆虫採集、標本作りには意味があります。
研究に役立てたら、希少種の保全に活かしたり。
そうした中で昆虫採集は「昆虫を守る」ことにつながっていくはずです。
何もしていなければ、いざという時に彼らを守ることすらもできないでしょう。
ヒトよりも大きな存在があったとして、標本にするために犠牲になるヒトがいたとしても私は……
やっぱり嫌だと思います。
自分らがされて嫌なことを、昆虫に対してはやっている、矛盾した関係です。
だからこそ、この矛盾のズレをどこまで補正できるかは常に考え続けていたいものです。